たそがれイリーの「なるようになるさ」

なるようになるさ。いいことがなくたっていいじゃない。悪いことがないんだから。日々平凡…なるようになるさとつぶやいて、明日を目指してまた生きる38歳、言葉を紡いで暮らしていきたい男のブログです。



STAP細胞の件でも、まだ懲りてないマスコミ。

割烹着が素敵だって、散々煽ってたのはマスコミじゃないか。また私のブログが「マスコミじゃないか」と言う書き出しになってしまう。

 

案の定、STAP細胞の存在そのものが「疑われてきた」のは事実です。疑われたということは「期待されていた」ことであったのに、それがそうじゃないとなるのであれば、期待していた人々が逆に「疑う」ことは、ある意味自然です。

 

マスコミも既に「おかしい」「弁明すべき」と言う論調を張り始めていますが、その前に「自分たちの報道もおかしいです」「自分たちも弁明をいたします」と来るのが、マスコミに必要な礼儀ではないでしょうか。

 

佐村河内氏の件しかり、小保方氏の件しかり、マスコミが作り上げたイメージによる

「商品」の賞味期限が切れたから、上手に捨てる。その方法をどのようにするかばかりを考えているマスコミを、国民の大半が「疑っている」のですからね。

 

僕自身の意見ですが、現状の問題の原因は「マスコミ流儀」として考えるといいのではないでしょうか。特定の一個人、それも何らかのハンディキャップやカメラの移り映えがする一個人をクローズアップして時の人にして、使い捨てるという流儀が、バブル崩壊後は当たり前になってしまったことが、さまざまなマスコミの悪癖の原因ではないかと思います。

 

マスコミによってつくられた虚像に心を奪われる国民にも、責任がある。そこまで行ってしまえば暴言かもしれないけど、見ていてばわかりそうなものです。お金のかかる大物タレントを使って視聴率を稼ぐより、多少要素のある素人をクローズアップして視聴者を感化し、感動させてやれば視聴率が稼げるとばかりに、マスコミが虚像を作ることで、金儲けのことしか考えなくなってきたわけで。

 

だから僕たち国民は、マスコミに対してあらゆるサボタージュを行う時期になっているのかもしれない。世間一般では起きていなかった「韓流ブーム」ですら、マスコミの虚像により、その本質である「韓流とはなにか」が理解されなかった。だから「ブーム」で終わり、「文化」としては理解されなかったという、残念な部分がある。もし文化として理解されていれば、いわゆる国家間の関係、国民間の感情にもよい変化があるはずだったのに。

 

国家間の関係を「ネトウヨ」という浅い言葉で表現し、国家施政の代表たる者を批判する事を批判することしかしないマスコミ、あなたたちが起こした「韓流ブーム」では、韓流文化、それが日本国民に向けて醸成できればよかったのに、それに寄与できなかったばかりか、恣意的な報道しかしてこなかったではないですか。それをまず反省しなさいと言いたい。