たそがれイリーの「なるようになるさ」

なるようになるさ。いいことがなくたっていいじゃない。悪いことがないんだから。日々平凡…なるようになるさとつぶやいて、明日を目指してまた生きる38歳、言葉を紡いで暮らしていきたい男のブログです。



「笑っていいとも!」が終わり、僕たちはどうする。


笑っていいとも【最終回】「明日も見てくれるかな?」「いいとも!」 - YouTube

 

「明日もまた、見てくれるかな!」この言葉だけで、なんだか明日がまたいつものようにやってくると思えます。

 

明日がまたくる。タモリさんの気持ちは凡人の僕にはわからないけれど、最終回であっても、いつものように「明日もまた、見てくれるかな!」とテレビの前の人たちに問いかけたのは、何か意味があっての事だろうと思うのです。赤塚不二夫先生の葬儀に際し、あれだけの弔辞を述べられた人ですから。

 

僕なりに考えると「笑っていいとも!」という生活の一部、平日正午に「あたりまえ」「当然」のように存在していたものが終わり、ぽっかり穴が開く。その寂しさやむなしさ、終末から感じさせるマイナスのイメージを払しょくしたかったのかな、と勝手に思ってるんです。それだから「明日もまた、見てくれるかな!」と、あえてタモリさんはやったのかも、と。

 

明日は誰にでも来る、病に伏している人たちであっても、人生途方に暮れている人でも、明日は均等にやってくる。チャンスがないから今の人生ダメなんだと世間を恨み、人を恨む人たちにだって、明日は均等にやってくる。そもそも人間として「明日が来ること」を、当然に思って傲慢になってしまうか、明日が来ることを楽しみにしているか、明日に飛躍を誓うか、さまざまな人間の「明日」があると思うんです。

 

タモリさんの事だから、何かしら意図があるんだろうなぁって、考えてしまうけど。僕なりの解釈では「またいつものように明日は来るのだから」ということ、そのことを再確認して生きなさいよと言ってくれているのではないかと、考えてしまうのです。

 

人間は、明日が来る限り、失敗や挫折もするけど、希望や夢、ささやかな喜び、多くのことを感じることができる生き物です。でも「明日」が来るのを当たり前に考えるのではなく、僕たちが望む僕たちなりの「明日」を、もう少ししっかり考えて、自分とも向き合って、日々大事に過ごせること、タモリさんにならって考えてみてもいいかもね。タモリさん曰く「淡々と」こなしてきたかのように言うでしょうが、それで32年間続くような番組は、正直言ってありえないもの。

 

だからみなさん、明日は年度替わりでもあるし、何事にも「節目」でもあります。そんな節目に立つ日々である「明日」のこと、今日はもう1時間もしない間に終わりますけど、ちょっとだけ明日のこと、いつもより真剣に考えてみてもいいと思います。