たそがれイリーの「なるようになるさ」

なるようになるさ。いいことがなくたっていいじゃない。悪いことがないんだから。日々平凡…なるようになるさとつぶやいて、明日を目指してまた生きる38歳、言葉を紡いで暮らしていきたい男のブログです。



NHKスペシャル「認知症800万人時代」を見て、人生の終焉を考える。

以前自分自身の人生設計について書きつづったことがあります。自閉症の息子を自分の体が動く限り傍らに置いて暮らしたい、と言うことを書きました。

 

日曜日の夜、NHKスペシャルで放映していた表題の番組には、すごく衝撃を受けました。自分もやがて息子と一緒にこのような老後の生活を過ごすのかもしれないと考えると、正直言って重苦しい気持ちになりました。

 

認知症になった配偶者を自分しか見られない、他人に見せられないと疲弊し続けても傍らで開放する夫。

 

1人で暮らしていて、施設に入ることを拒み続ける独居老人。自分が認知症になっていると分かっていても、それでもこの家で死にたいというのが、人生で最後の希望だという現実。

 

何のために、一生懸命生きてきたんだろうか、人間は。そんなことを考えると、今から50年後の未来をすごく案じてしまいます。自分に重ねると、80歳になった自分が、果たして58歳の息子を残して死ねるだろうか。傍らには79歳の妻がいるはずですが、妻だって五体満足で元気にいてくれるとは限らない。いわゆるダブル介護状態になっていたとして、自分はその時どう思うのだろうか。

 

その時「今まで頑張ってきたのは何だったのだろう」と悔やむのだけは、やめたいと思っています。悔やむ暇があったら、これも人生とケセラセラ言いながら、自分の体が動く限りは、血のつながった家族と一緒にいたい、そして力尽きてもいいから、悔いなく働いて往生したい。それが僕の人生設計図の終焉であってほしいと思っています。

 

人生の終焉でいえば、先日起きたある女子中学生の自殺。ニコニコ動画でその直前までの様子が中継されるというなんともおぞましい出来事があったのも、この週末のこと。この女子中学生が何を考えて人生の終焉を迎えたかは知る由もありませんが、少なくともいえるのは、こんな終焉は誰も認めてはくれないであろうことだけ。

 

死してでも表現したいことがある、という意見もあるのかもしれない。もし人間が自らの存在を、自らの生命を賭してでも立証したいという潜在意識を持っている生き物であるならば、死して立証するのではなく、生きざまで立証してほしいし、そういう生き物であると僕は信じていたい。「死んで花実が咲くものか」と言う昔の諺をしっかりと噛みしめたい。

 

しかし人生って、いろいろありますね。38歳の人間が人生の終焉を考えてるなんてなんだかおかしいことかもしれませんけど、逆を言えばこれからの人生がまだまだ長いのだから、どうやって悔いなく、大事に、花見のある人生にして生きていくか、それってしっかり考えておくと、きっと前向きに生きていけると…今はそう、信じています。